中国で激しい暴動が起きている。
まだ真偽の程ははっきりしないのでなんともいえないが、こういった事件だ。
15歳の少女が暴行され殺された。
その犯人が役人の息子であるために、事実が隠蔽され少女の死が自殺として扱われ、抗議した親族も殺されたというのである。
それが本当であればひどい話である。
ひどい話であるとは思うが、ある意味中国の民衆のこのバイタリティと言おうか、警官隊に発砲されるほどの抗議の暴動を起こすことのできるパワーに内心
うらやましさを覚えるのである。
昨今韓国でも米国産牛肉の輸入をめぐってデモが起きたが、同様の問題があっても日本人が過激なことはしない。
小声で文句を言うだけでいつのまにか政府のお役人に丸め込まれてしまう。
そもそもこういう事件がおきるにつれ、
日本人は民主主義というものを履き違えているのではないかとつくづく思うしだいである。
そもそもこの中国の事件も
権力と結託した役人が起こしたという点では
サムライが起こした事件である。
旗本の息子が戯れに町人の娘を暴行して殺した。
そんなことたいしたことがない。
なぜならこの中国を支配しているのは役人サムライであり、支配者に間違いや犯罪はない。
だからなかったことにする。
これが中国でずっと行われてきた武士の一分である。
さて、日本人は全く騒がないが、それはわが国のサムライ役人が中国ほど悪質でないからなのだろうか?
そんなことはない。
被害者は女性ではないが、
1999年に起こった栃木のリンチ殺人事件は十分に悪質かつ残忍であった。
詳細(Wikipedia)
この事件記憶されてい方もいると思うが、当初から警察の対応が遅れ、というより全く対応せず、被害者の両親の訴えを警察が無視して最悪の結果を招いた背景には、
主犯の少年が栃木県警の警部補の息子であったからと言われている。
サムライによる身内の犯罪の隠蔽と言う意味ではこの暴動の元となった犯罪と同質のものなのである。
にもかかわらず当初からほとんどのマスコミはこのことを報道せず、あまり大きな問題とはならなかった。
こういった問題が多くある背景には日本の一般大衆の権力に対するあまりにも寛容すぎる一面と、さらに言うなら治安維持の名目で抗議行動などを強く封じ込め、言論弾圧を強権的に行う警察の体質にあると思う。
つまり日本のデモなどの抗議行動は都合よく警察の牙を抜かれたものになっていて、その背景には安保などの時期にあった激しい政治活動や運動を、マスコミを通じて総じてすべて「悪」というレッテル張りに成功したことが一因にある。
目的は手段を正当化するとも言うが、当時の運動がすべて間違っていたわけではない。
しかし一部にあった連合赤軍などの過激な運動を極端に強調し、政府や役人に選挙以外の方法で物申すのは、いまやすべて悪といった風潮になってしまったのである。
しかし考えてみれば、明治以降
本当に民衆が立ち上がって政治や国を変えたことがこの国にはあったのだろうか?
明治維新は市民革命にたとえられることもあるが、サムライ同士の覇権争いにしか過ぎなかった。
結局四民平等などといいながらサムライの特権は残り、政治は買った方のサムライたちに牛耳られただけであった。
そして戦後、何の血も流さず(ある意味第二次大戦の血は流れたが)ポンとアメリカに民衆は自由と権利を与えられた。
もらったこと事態はよかったが、この国も民衆は
その価値がどれほどのものかよくわからないままに、その権利を
うまく使いこなすことができないままに現在に至っている気がしてならない。
しかし韓国でも台湾でもフィリピンでも周りのいろいろな国で民衆は軍事政権や独裁政権から、デモや抗議行動によって権利を勝ち取り、今の民主的な体制に至っていると言う経緯があることを我々は忘れてはならない。
考えようによっては中国もそうである。
国共内戦のときに民衆は国民党に失望し、共産党を選んだ、その結果として今の中国があるのだ。
逆に言えば選んだからこそ、それが失望にしか値しないのであれば抗議する権利がある。
それは
体制を民衆が自ら選びと他と言う自負があってこそ成り立つのである。
もちろん今の中国に問題があるのは承知しているが、あくまで政権を選んだのは民衆であると言う自負の元に例えば昔の天安門事件のようなこともあったし、そのことは今後も変わらず、中国と言う国がよ
く変わるための力となると思う。
もちろん暴動と言ったことが起こり、人が死んだりするのは避けたほうがいいが、だからと言って民衆の抗議の力が全くなくなるということは
体制に対する自浄能力もなくなるということなのであることを忘れてはならない。
逆に我々には政権を自ら選び取った、そして
日本は民衆の国であるという自負はあるのか?
ならばなぜ
「日本は天皇を中心とした神の国」などという首相が最近までいたのだろうか?
ともあれこの事件は
対岸の火事ではない。
日本を私物化する官僚の悪事は今でもたくさんある。
しかし日本人はもっと素直に怒りを感じると言うことを忘れ去っているようだ。
暴動だ、野蛮だと非難する前に、それを非難できるほど我々は政治に対してモノ言う力を持っているのか?
リンクを読んでみればわかると思うが、
栃木の事件も法的な形で訴えてはいるが、たいした進展がないし、これだけ時間をかけて被害者の遺族たちは暴力的ともいえる仕打ちも受けているのが現状なのである。
怒りは熱く噴出したその時でないと効果が現れないこともある。
そしてそのとき行動に移さなければならないこともある。
怒るべきときには怒れ!
ハスにかまえて冷静なフリをしている場合でないこともある。
これが今日の町人の一分だ。